遠藤仁郎博士・青汁の創始者

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遠藤仁郎博士・青汁の創始者

遠藤仁郎博士の原著(PDF

青汁の奉仕活動

健康と病気と青汁

 

プロフィールと活動の軌跡

1900年(明治33年)岡山県の生まれ。

1925年(大正14年)京都帝大(現京都大学)医学部卒。

その後、京大講師を経て大阪女子医専(現関西医科大学)教授に就任。

1943年(昭和18年)より「青汁」を創始。青汁は博士のヒナ子夫人が命名。

1945年(昭和20年)倉敷中央病院に赴任、病院給食に青汁を採用。

その後同病院の院長に就任。

1954年(昭和29年)ケールの青汁誕生。遠藤博士考案の青汁を「遠藤青汁」と命名。遠藤青汁普及会発足。小学校で青汁の試飲開始。

1955年(昭和30年)遠藤青汁普及会機関誌「健康と青汁」発刊。

1956年(昭和31年)小学校で青汁給食開始。

1957年(昭和32年)遠藤青汁の会発足、遠藤博士が会長。

1961年(昭和36年)主婦の友社から「青汁の効用」を刊行し、全国に青汁ブームを起こす。遠藤青汁の会全国総会開始(岡山県倉敷市にて)。

その後も青汁の会会長として機関誌「健康と青汁」を発行するとともに、青汁の講演、著作物発刊などを行い、日本人の健康増進に情熱を示した。

1979年(昭和54年)倉敷中央病院名誉院長。

遠藤青汁の会は、その後日本全国から海外にまで拡大し、25,000人以上の会員を数えるようになった。会は遠藤博士を会長として、完全無給奉仕の会員よりなる稀有の団体で、活動について国内のみならず、諸外国から多数の視察団が訪れ、こんな会は世界にないと言われていた。

1990年(平成2年)医療法人緑の会タナベ内科医院の遠藤青汁友の会グリーンライフの青汁講演会開催。以後毎年、数回、連続開催。

1991年(平成3年)遠藤青汁の会機関誌「健康と青汁」廃刊。これ以後、「遠藤青汁」の新指定は一切認められていない。

1994年(平成6年)岡山県倉敷市向山に遠藤仁郎博士胸像建立(遠藤仁郎博士顕彰会・会長貝原邦夫先生)。

1997年(平成9年)逝去(97歳)。

生涯を通して晩年に至るまで、倉敷市向山に自らクワをとって無農菜園をつくり、青汁の理念「イモ・マメ・ナッパ・青汁」を実践した。

【先生のお住まい:その昔、院長時代私(貝原邦夫)が数ケ所の土地をご案内しましたが、ここがよろしいの一声で決まった。雑草と自然林に囲まれた簡素なお住まい。一軒家でさみしくないですか?いや、私は草と話をしますから決して淋しいとは思いません。】

遠藤仁郎博士の理念

青汁はケールを材料とするのが最適。青汁は本来自分でつくって飲むもの。できない場合は、信頼のおける市販青汁(生青汁、乾燥青汁)を利用。材料は安全な農薬・化学肥料未使用のもの。青汁は薬でもサプリメントでもない、野菜そのもの。野菜を大量に食べるための一方便として考えられたもの。青汁は豊富に含まれているビタミンやミネラル、微量元素、植物繊維などにより、栄養のバランスを改善して、ヒトが本来持っている自然の力(健康増進・病気治癒)を引き出し、健康な人は益々健康に、病気の人は治りを早くしようというもの。飲む量は、健康な人から病気の人まで、それぞれの状態に合わせて2合〜6合それ以上、多ければ多いほどよい。青汁をより有効にするには、食生活全般の改善(危険な食品をとらない、肉・魚・砂糖・精製米を減らし野菜多く)が必要。さらに、完全にするにはイモ・マメ・ナッパ・青汁食がおすすめ。

青汁は宣伝してはいけない。体験した人から自然に広がる地道な活動だけが好ましい。青汁の活動(講演会、健康相談など)で一切の報酬は不要。

遠藤仁郎博士の主な著書

青汁読本(完全栄養の話) 青汁叢書・遠藤青汁の会

自力で守ろう 青汁叢書・遠藤青汁の会

病気と青汁 青汁叢書・遠藤青汁の会

青汁の効用 主婦の友社

生涯青汁 青汁叢書・遠藤青汁の会

たべものあれこれ 青汁叢書・遠藤青汁の会

青汁と健康 主婦の友社

なんでも青汁 青汁叢書・遠藤青汁の会

こうするしかない 青汁叢書・遠藤青汁の会

葉っぱ雑記 遠藤青汁の会

The Miracle Green Juice  Endo-Aoshiru-no-Kai

イモ・マメ・ナッパ・青汁 遠藤青汁の会

ナッパ青汁 二華園印刷

緑葉食・青汁の話 遠藤青汁の会

青汁は効く 主婦の友社

遠藤仁郎博士顕彰事業

  

「利を求めて病を追わざる者は即ち下医。病を究め病と闘う者即ち中医。病人を察し病人を癒するは即ち上医。病める国を憂いてこれを医せんとする者大医。」

これは故東大生理学教授永井潜博士の言葉です。

青汁(遠藤青汁)の開祖、救国の大医遠藤仁郎先生は、敗戦の悲報を耳にした昭和20年(1945年)815日の夜、寝もやらず、これから先の余生をいかに生くべきかと模索に模索を重ね、日本再建の道は全国民の真の健康なくしてはあり得ない。何を措いてもまず栄養の改善だ。そして、その唯一の途はこれだ!日本を救うものは緑葉食、青汁のほかにない。そうだ、これがためにすべてを捧げよう、と静まりかえった応召中の医務室で独り心に誓いました。

もう病院はやめて田舎の山の中にでも閉じこもろう。小屋がけでも、穴居でもよいと決心し、倉敷に帰還後病院に辞職を申し出た。しかし、病院側に強く留任を求められ、結局病院に在籍してその実行を期することにしたと聞きました。

先生はこのようにして、当時全国民が生きていく術も見失って、治安乱れ、金を得るため闇商売横行という混濁の世相の中で、孤影敢然として悲壮ともいえる第二の人生の門出からここに風雪50年!!

未だに私(貝原邦夫)の心から消え去ることのない当時の青汁活動の一こま。奥さんが私にそっとささやかれた言葉、主人が青汁をはじめてから、子供二人をかかえてなかなか生活が苦しいんですよ・・・・・。

また先生の名医としての一端。内科医長時代母校(京都大学)主任教授としての招請を二度までも断わったんだよと、当時の院長さんが私にもらされたこと。血管系、癌の二人の総理大臣の診察に密使の依頼で地方からただ一人二度も上京されたことなど。

光陰は百代の過客にして、ひと時も留まることを知らずと。

先生は93歳の御高齢。昨年は過労による老人性肺炎で長期の御入院、しかし現在は入院前以上の健康を取り戻され、向山の御自宅で読書に又軽作業の野菜づくりに秋の日を静かに御過ごしになっていらっしゃいます。

昨年来全国の青汁関係者から快気祝いの要請、また来年は時恰も「青汁開眼」50周年という記念すべき年。これら慶びを兼ね併せ、更にあと7年、青汁人生100才までもと先生の御長寿を祈念して、ここに発起人一同協議の結果、遠藤仁郎先生顕彰事業として先生宅の一角にブロンズ像建設を計画いたしました。(像の場所はその後今の向山公園入り口に変更された。)【1993年(平成5年)貝原邦夫】